震災直後の救命救急センターの対応
3.11の大震災があり、救命救急センターからDMAT隊が出動しました。医師を2名派遣し、日常業務は留守番係が頑張りました。先遣隊は5チームのみの派遣だったので、「我々は準備万端です」と売り込んで、行かせてもらいました。
我々のチームは第2次派遣にも出動すべく次の医師2名も待機していたのですが、災害現場では救命対応の患者さんが少ない(すでに亡くなっている方々が多かった)ために、第2次派遣は招集されませんでした。
その後、原発の事故があり、放射線障害を負った患者さんを診察する可能性があったため、院内で放射線知識の整理など、準備に専心しました。そういった調整に1~2週間費やしたような気がします。
4月以降も、東京都は継続して医療救護班を派遣しましたが 、当院は計画停電中につき手術や透析が早朝や深夜に及び、医師の派遣は難しい状況でした。救命救急センターでもレントゲン検査すら難しい日がありました。
そして5月に入って計画停電が終わったため、宮城や岩手の急性期医療施設に連絡し、「お手伝いに行きたい」と伝えたのですが、その気持ちは感謝されつつも、お断りされました。急性期医療はすでにあまりニーズがないようでした。
ただし慢性期災害医療のニーズは大いにあったため、私自身はプライマリケア学会から避難所の診療所に向かいました。とにかく東北に行きたかったです。誠意をもって参加したため派遣中は禁煙しました。それ以来、タバコはカンペキに辞めました。
東京・院内の災害対策を開始
帰京後、いくぶん空白の時間があったように思います。日常の仕事はぎっしりだったのですが、東京での災害対策業務にはあまり気が進みませんでした。夏に工学院大学の先生をお招きしいて、直下型地震のシュミレーションを解説してもらった程度でした。
というのも私の中で、まだ東京で次の地震に向けた対策を始めることが、時期尚早な気がしていました。東北の被災地はまだ復興期の初期なので、その支援が先で、こちら(東京)の話はもう少し後、という気持ちがありました。
そんななか、10月に新宿で救急医学会総会があり、災害のセッションで、東北の先生方がたくさん発表されていました。みなさんがある意味「過去形」で話しているのを聞いて、ああ一区切りついたんだな、と思いました。そのことをきっかけとして、「よし、始めよう」と思いました。
毎年行っている11月の院内防災訓練に 、突貫的に災害トリアージの要素を加えさせてもらい、職員に少しでも災害対策の意識を、と考えました。ドタバタでしたが事務職員の方たちと良いコミュニケーションになりました。
12月に、宮城で災害医療コーディネーターとして活躍した大庭先生を招いて講演会を開きました。ここに八王子消防署長、東京都福祉保健局の課長、八王子市の災害対策課長、当院の病院長、などをお招きして、「そろそろ本格的に始めましょう」と了解を得ました。
1月に災害対策ワーキンググループなるものを院内で立ち上げました。防災管理委員会という公的委員会がありますが、これに付随する「実働部隊」のような位置づけにしました。現場の事務職も多く含み現実的な組織構成です。
2月に第1回ワーキンググ ループ(以下WG)を開き、院内の災害用資機材の備蓄について検討しました。3月のWGでは、新しい災害時指揮命令系統の図案を考案しました。これらの活動内容は、様々な形で院内広報しています。
災害訓練ですが、まずはエマルゴという机上訓練を、5月20日(日)に東邦大森の先生に指導していただくことになりました。WGのメンバーも今年度中にはインストラクターになる計画です。こういった机上訓練から始めて、いずれ大きな実践訓練も検討しています。
そして5月14日、東京都から地域災害医療コーディネーターに任用されました。これは災害時に近隣市町村の被災状況を把握して、傷病者の搬送やDMAT隊の配置などをコーディネートする、広域の拠点業務です。
東京都地域災害医療コーディネーターは、平時から地域の防災計画に精通し、新たな計画の作成にイニシアティブを発揮する、大切な仕事です。これに関しては、次回のコラムで説明させてもらいます。
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